تسجيل الدخول「東国光也! 貴様っ――何だ?」
勢いよく部屋へ踏み込もうとした実篤の前で、光也は人差し指を唇の前に立てた。
静かに。
その仕草に、実篤は眉を寄せる。
何だ、と不思議そうな顔をしながらも、ひとまず声を落とした。
「誰かにつけてこられませんでしたか?」
光也が周囲を確認しながら尋ねる。
「……警察の世話になるようなことをやらかしたのか?」
「心当たりはありませんね」
「君が気づいていないだけかもしれないぞ」
実篤は深いため息をついた。
「それより、実花はどこだ?」
「ここにいますっ」
実花は光也の背後から声を上げた。
実篤からは、光也の身体に隠れて実花の姿がほとんど見えない。
光也が背に庇うようにして、実花を前へ出さないようにしていた。
「……何をしている?」
「実花を叩かせるわけにはいかない
「……なんだそれは?」藤宮家の玄関前。光也を出迎えた実篤は眉間にしわを寄せた。「実花にです。お義父上にではありませんよ?」「俺が花をもらってどうする」「飾ればよろしいでしょう」実篤との言い合いを聞きながら、実花は光也からもらった花束を控えていた使用人に渡す。「お部屋に飾っておきますね」「お嬢様宛てですものね」使用人たちがクスクス笑いながら、花を受け取る。実花は笑い、実篤も思わず苦笑したところで。「お義父上にはこちらを」「……なんだ、これは」「塩です。高峰さんから、ついでに塩を買ってきてほしいと頼まれました」「それで買ってきたのか?」「頼まれたので。どうぞ」差し出された塩を実篤が受け取る。「どこで買った?」「特別なブランド塩ではありませんよ。そこのコンビニです」「君もコンビニに行くのか」「一人暮らしの、料理のできない男が、コンビニなしで生き抜けると思っているのですか?」「自信満々に言うな。それなら料理を覚えろ」「お義父上はできるのですか?」「できんが、うちには料理人がいる」「いいですね。俺にも利用させてください」「飲食店のように気軽に来ようとするな」実篤は、大きくため息を吐く。「高峰から連絡があったということは、真理君のことは聞いたな」「一ノ瀬家からの依頼で興信所が探っているそうですね」そう言うと、光也は肩を竦めた。「何を探ろうとしているのかは想像ができますけどね」「そうなのか?」実篤が意外そうな声を出す。「なぜ、そんなに不思議そうなのですか?」「君は他人の気持ちになど一切興味がないのだと思った」「間違っていませんが、実花が勘違いをしたので『そうかな』、と」「実花がどんな勘違いを?」
「失礼します」朝食を終えたタイミングで、高峰が入ってきた。「旦那様」「なんだ?」「こちらを」高峰が差し出したタブレットを実篤が受け取るのを見ながら、実花はナプキンで口を拭いた。そして、部屋を出るために立ち上がろうとしたとき。「お待ちください」高峰が実花を止めた。「実花お嬢様にも関係することです」「分かりました」何が起きたのかと実花がわずかに緊張したとき。「おはようございます。ご挨拶が遅れて申し訳ありません」「あ……おはようございます」高峰が実花に向ける笑顔は柔らかい。その笑顔を見ると、何かは起きたものの、差し迫った事態ではないのだと思えた。.「小童が……」実篤が喉から絞り出したような言葉に、実花はビクッと体を震わせた。「旦那様、言葉が乱れていますよ」「古語として見れば乱れておらん」「東国様に『これだから爺は』と言われますよ」「あの若造が……」(……東国さんって、お父様のことそんな風に言ったかしら)「ちょっと待て。いくらあいつでも、私のことを爺などとは言わないぞ」「そうでしたね。申し訳ありません。私の心の声です」「お前、いつも私のことを爺と罵っているのか?」「頭の中だけです」「罵っているじゃないか……全く同じ年で何を……」実篤はため息を吐くと、またタブレットに目を向ける。指で動かしているところを見ると、続きを読み始めたようだ。(東国さんとのやり取りに慣れた感じがあるわけだわ)実花が高峰を見ると、高峰がこちらを見た。「今日もいい天気でございますね」「そうですね」
同じ頃。薄暗い部屋で、恒一も同じ投稿を見ていた。机の上には、何冊もの雑誌が開いたまま積み重ねられている。どのページにも、光也と実花が並んで写っていた。ホテル。レストラン。結婚式場。広告の中で、実花は光也だけを見ている。そして今。スマートフォンの画面には、光也に抱き上げられ、安心したように笑う実花の姿が映っていた。恒一の指に力が入る。(実花の婚約者は、俺のはずだ)そう決まっていた。あの誕生日パーティーで、発表されるはずだった。実花もそれを望んでいた。いつも恒一を追いかけ、恒一に褒められようとしていた。恒一の妻になることを夢見ていたはずだ。それなのに。「どうして……」実花が光也へ向けている笑顔。恒一は、あんな笑顔を向けられた記憶がなかった。胸の奥に、苛立ちが湧き上がったとき。恒一のスマートフォンが震えた。表示されているのは【一ノ瀬美鈴】。『恒一さん、いま大丈夫?』美鈴の声に、恒一の表情は無意識に緩くなる。「ああ、どうした?」そう答えたとき、窓ガラスに映った自分に気づいた。楽しそうな表情をしていた。(なるほど……)美鈴との会話は楽しい。男女の関係になってからは、駆け引きも増えた。二人だけの秘密を持つ背徳感もあり、以前よりさらに楽しい。しかし、そうなる前も美鈴といるのは楽しかった。義妹だからと一歩引くときもあれば、義妹だからと甘えてみせるときもある。しかし常に自分を立ててくれる健気さがあった。(美鈴に嫉妬しているのか)自分が美鈴を大切にしているから。義妹に対してやきもちを焼くなどみっともないと思うが。(まだ十八歳なのだから、俺のほうが寛大になるべきなのだな
火曜日。実花が光也の会社でアルバイトをしていると、受付のほうがにわかにざわついた。「荷物かな?」社員の一人が顔を上げ、実花もつられてそちらを見る。やがてフロアへ入ってきたのは、一見すると配送業者にしか見えない人物だった。濃い色のシャツ。動きやすそうなパンツ。深く被った帽子。光也の会社に出入りしている業者の格好で、実花も見慣れているはずだった。その顔が真理でなければ。「こんにちは、東国光也さんはいますかー?」真理が片手を上げる。元気のいい声に社員たちの目が真理に向き、実花は慌てて光也の部屋に案内する。(真理って……)普段は女子生徒として整えられた姿しか見ていなかった。けれど今日は違う。制服の直線的な形が肩幅や骨格を際立たせ、いつもの中性的な雰囲気よりも男性らしさが強く見える。「格好いい……」光也の部屋に入ると同時に、その言葉はするりと口から出た。真理は驚いたあと、嬉しそうに笑う。「ありがとう」友人への素直な感想だった。実花にそれ以上の意味はない。しかし、実花が入ってきたため書類から顔を上げた光也は、その言葉に眉を寄せた。「何の用だ?」声が低い。「挨拶より先にそれ?」「仕事中だ」「実花がアルバイトをしている時間に来れば、二人ともいると思ったんだよ」真理は悪びれた様子もなく、光也の机へ近づいた。「その格好は?」「篠原真理がここに何度も来て、変に目立ったら困るからね」真理は帽子のつばを軽く持ち上げる。配送業者の制服なら、建物への出入りを不審に思われにくい。「それで、何の用だ?」光也がもう一度尋ねる。「この間のデートの反響を、二人と一緒に確認したくて」「反響?」実花は首を傾げる。先日の光也とのデート。食事をして、展覧会を見て、カフェにも立ち寄った。ただ二人で出かけただけのつもりだった。もちろん、政近へ見せつける作戦の一部ではあった。実篤がそのために記者を手配していたことも知っている。だが、実花自身は周囲の目をほとんど意識していなかった。実篤も「問題ない」と言っていた。「すごいことになってるよ」真理はスマートフォンを取り出し、画面を実花へ向けた。そこには、いくつもの投稿が表示されていた。【広告の二人、本当にデートしてた】【東国光也、婚約者への溺愛が隠せてない】【藤宮実花ちゃん
高峰の提案によって、光也とのデートが決まった。これまでにも二人で出かけたことはあるけれど、今回は違う。光也が好きだと自覚してから、初めて二人で出かけるのだ。(デート……)実花の胸が落ち着かなくなる。.「お嬢様、そろそろ……」「……分かっています」何を着ればいいのか分からない。クローゼットには、実花に似合う服しかない。目利きの西野が実花のために選んで持ってきて、それからさらに使用人たちが厳選したものだけが並んでいる。そこから使用人たちが、今日の気候と、目的がデートだと言うことを配慮して、三着を選び出した。淡い青色だが、灰色がかっているので実花の落ち着いた雰囲気に似合うワンピース。少し大人びているが、実花の初々しさが自然と可愛らしさを添える濃紺のセットアップ。写実的な花柄が施されたブラウスと、オリーブ色のマキシ丈のスカート。「どれになさいますか?」使用人に尋ねられ、実花は困ったように服を見比べた。「……選べません」自分にセンスがないことは自覚している。だから、使用人へ任せてしまえばいい。けれど今日は、それは違う気がした。(東国さんは……)大人っぽいものが好きか。それとも。ほんの少しくらい可愛らしさがあったほうが、光也は喜ぶかもしれない。そう思った途端、胸が熱くなる。(東国さんに喜んでもらうために服を選ぶって……)前の生では、恒一の好みに合わせて服を選んだ。でも、あの頃は嫌われないためだった。嫌われないために、美鈴に似せていた。でも、今回は違う。嫌われないためではない。誰かになろうとしているわけでも
「実花お嬢様」父の秘書である高峰に声をかけられ、実花は読んでいた本から顔を上げた。休日の午後。藤宮家のリビングには、実花のほかに真理がいた。真理はソファに座り、実花のために用意された焼き菓子を当然のように食べている。「どうしたの?」「東国政近様より、実花お嬢様を食事へ招待したいとの申し出がございました」「え……」実花が目を見開く。広告が発表されてから、まだ数日しか経っていない。それなのに、東国の当主である政近から食事の誘いが来た。実篤たちが立てた作戦は、驚くほど早く効果を表した。「情けないくらい簡単に釣れたね」真理が呆れたように呟く。「自分がすべての中心じゃないと気が済まない人なんだよね。光也さんが注目されたことが、よほど面白くなかったんだよ」真理は焼き菓子を一つ摘まみ、口へ運ぶ。「自分の息子が褒められたんだから、喜べばいいのにね」そのとき、リビングの扉が開いた。「東国光也様がいらっしゃいました」藤宮家の使用人に案内されて光也が入ってきた。光也は実花へ向けていた表情を、真理の姿に気づいた途端に曇らせた。「真理、なんでここにいる」挨拶より先に、不満が口から出た。今日は実花と二人で過ごせると思っていたらしい。「実花パパが招待してくれたの」当然のような顔をして真理が答えた。光也の眉間にしわが寄る。「“実花パパ”?」「私は間違いなく実花のパパだが?」光也の不満を笑うように、低い声が奥から答えた。休日で家にいた実篤が、書類を片手にリビングへ入ってくる。真理は笑顔で手を振った。「実花パパ、こんにちは」「よく来たね」ずいぶんと馴染んでいる。光也は気に入らなそうに二人を見比べた。「同じ男なのに、なぜこいつは良いんです?」「性別は同じでも、この子は君じゃない」ふん、と実篤は笑う。「パパと呼ばれるのも新鮮で楽しいしな」実篤はまんざらでもなさそうだった。実花からは幼い頃から一貫して「お父様」と呼ばれている。今さら「パパ」と呼ばれる機会などない。「それならば、俺もパパと呼びますよ」光也が真顔で言い、実篤も真顔で答えた。「東国の父君の次でいいぞ」「それは残念です」光也はあっさりと諦めた。政近を「パパ」と呼ぶ日など一生来ない。実篤もそれを分かったうえで言っているのだろう。二人のやりとりに実花は苦
「全く……美鈴、疲れているだろう。今日はうちに泊まっていくといい」その言葉は、まるで最初から用意されていた結論を読み上げるかのように自然だった。迷いも逡巡もなく、恒一の口から滑り落ちる中に実花の反応を気にかける様子はない。「でも、服が……」美鈴は困ったようにわずかに眉を寄せる―――困り方すら整えられていた。自分がどう振る舞えば最も『恒一に大事にされる存在』として成立するか、それを計算した振る舞いだった。「今夜はこの前置いていった服をとりあえず着ればいい。明日になったら一緒に買い物に行こう」恒一は即座にそう言い切った。その声音には、『こうするのが当然』というような親密さが滲んでい
その夜の記憶は、実花の頭の奥底に、まるで消えない染みのように残っている。思い出そうとしなくても勝手に浮かび上がり、忘れようとすればするほど輪郭を濃くしていく。そんな種類の記憶だった。.実花が夫の恒一と暮らしていた藤宮家の別邸は、その夜も例外なく重たく閉ざされていた。外の世界から切り離されたような敷地の中では季節の風すら遠慮がちに通り過ぎ、建物全体が呼吸を止めているように静かだった。ダイニングに入った瞬間、まず実花の目に飛び込んでくるのは過剰なほどの準備をされたテーブル。皺ひとつないクロス。寸分違わぬ位置に並べられた銀のカトラリー。食器の反射すら計算され
扉が開いた瞬間、空気が変わった。それまで室内に漂っていた柔らかな熱が、一瞬で冷え切る。重く、鋭く、抗うことを許さない圧が部屋の中へと流れ込んできた。「実花」低い声。その一言だけで、使用人たちの背筋が一斉に伸びる。まるで空気そのものが命令を受けたかのようだった。藤宮実篤。藤宮グループの頂点に立つ男は、いつだって“場の支配者”として現れる。誰かと会話をしていても、笑みを浮かべていても、その場の空気は最終的に彼のものになる。逆らうことを考える前に、人は自然と従う。そういう種類の男だった。実篤の視線がまっすぐ実花へ向く。そして次の瞬間、その目がわずかに見開かれた。「……そ
「お嬢様、今日は髪をまとめて、首元を見せてみたらいかがでしょう」その一言は、何気ない提案のようでいて、実花にとっては奇妙な重みを持って響いた。前世の記憶が一瞬でよみがえる。一ノ瀬恒一は、実花が髪を上げることを好まなかった。首筋が露わになることを「下品だ」と言い、社交の場で他の女性が髪をまとめているのを見ては、どこか見下すような言い方をしていた。その言葉を、実花は何度も正解として受け取ってきた。だから彼の前で一度たりとも髪を上げたことはなかった。それが「好かれるための正しさ」だと信じていたからだ。だが今、その記憶は違う形で胸に残っている。「……いいわね」返事はすぐに出なかった。







